『荀子』闘うことの是非

過去を振り返って、最も反省することは、争うこと、喧嘩が好きだったということである。

好きだったという以上に、間違った相手とは闘うべきであり、それが正義と考えていた。

闘うこと自体が誤りだと気づいたのは、ほんのここ数年のことである。情けない人間だと、思う。

闘う場合、誰もが自分が正しいと考えている。

ということは、僕は僕が正しいと考えていると同様、相手も自分が正しいと考えているということになる。

真実が一つだとするならば、どちらかが間違った判断をしている。

本来、正しくないことを正しいと考えるくらいであるから、それはとんでもなく間違った判断である。

そのような間違った判断をする人間は、どう考えても大した人間ではないだろう。

ここで、僕が正しいとすれば、僕は真っ当な判断をする人物であり、相手は下らない人間である。

そのような下らない人間を相手にして闘う意味など無いであろう。

一時の怒りに駆られて怒鳴り散らすことは、自分自身を損なうだけのことである。

闘う意味が無い、という言い方をしたが、正確には、闘うこと自体に意味が無い。

相手が正しく、僕が間違っている場合を考えたならば、相手が真っ当な人間であり、僕が駄目な人間ということになる。

駄目の人間のくせに、真っ当な人と闘うなど、意味が無いどころか、愚の骨頂であろう。

そしてこれも、正確には、自分が正しい場合も間違った場合も、闘うこと自体が愚の骨頂である。

どこからどう考えても、闘うことは過ちの極みであり、闘うことを正しいと考えている人間ほど馬鹿な人間はいない。

これほどまでに当り前のことが、長い年月、僕には分からなかった。

分かるまでに、50年近くかかってしまった。

分かるだけではなく、本当に出来るまでには、後、どれだけの時間が必要なのだろう。

果たして、死ぬまでに間に合うのだろうか。

出典 (明治書院)新釈漢文大系5 『荀子 上』藤井専英著 98頁

巻第二 栄辱篇第四

凡鬭者必自以爲是、而以人爲非也。己誠是也、人誠非也、則是己君子、而人小人也。以君子與小人相賊害也、憂以忘其身、内以忘其親、上以忘其君、豈不過甚矣哉。 凡(すべ)て鬭(たたか)ふ者は必ず自ら以て是と爲し、而(しかう)して人を以て非と爲すなり。己(おのれ)、誠に是なり、人、誠に非なり、則ち是れ己は君子にして、而して人は小人なり。君子以て小人と相賊害(あいぞくがい)し、憂(みだ)れて以て其身を忘れ、内は以て其の親(しん)を忘れ、上(かみ)は以て其の君を忘るれば、豈(あに)過(あやま)つこと甚だしからずや。