吉田松陰の講孟箚記

夏休みに入り、本棚の整理をしていると、『講孟箚記』が目にとまった。

よくあることだが、整理を中断し、つい中身を眺めてしまった。

『講孟箚記(こうもうさつき)』:吉田松陰著、近藤啓吾全訳注(講談社学術文庫上下巻)

これは、吉田松陰による『孟子』の講義録である。箚記とは、書物を読んだ感想を随時書き出した物という意味である。

吉田松陰を知らない人はいないであろう。

もし、知らなければ、いくら日本の地で日本人の父母から生まれていても、日本人とはいえない。

松陰は、ペリー艦隊に密航しようとして失敗し、江戸伝馬町の獄につながれた後、故郷の長州へ移送され、萩城下の野山の獄へと監禁された。

吉田松陰の人としての香気の高さは、日本史上でも傑出したものだと思う。

司馬遼太郎の『世に棲む日日』では、熊本の宮部鼎藏の言葉として、松蔭は友人のために死のうとした日本人最初の人物であり、誠実ということにおいて人間ばなれした人物である、と述べられている。

野山の獄の囚人達は、松陰と交わることによって、彼の人格に感銘を受け、当時まだ二十四歳の吉田を尊師と呼んだという。

この囚人達を相手に、どういう時でも勉強することは大事だというので、松陰は、自分の心を焦がすほどの気持ちを持っているという『孟子』を講義した。

その講義録が『講孟箚記』である。

松陰はこの後、有名な松下村塾を主催したが、安政の大獄によって処刑され、29年という短い生涯を終えた。

ところで、先ほどの『世に棲む日日』によると、松下村塾は不思議な塾であったという。

その建学の主旨は、「一世の奇士を得て、これと交わりをむすび、吾の頑鈍を磨かんとするなり」というもので、松蔭が先生として教えるというよりも、共に学ぼうというものだったという。

また、月謝は無料であり、さらに松陰という人は本当に優しい人柄であり、その人柄を慕い多くの子供たちが塾に集まったという。

そして、その中から高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文などが巣立って行ったのである。

『講孟箚記』は、上下巻合わせて1000ページを超える書物であり、ここではその内容を詳述することはできない。

ただ、久しぶりに目を通して思ったことは、勉強する、学問をするとはどういうことか、ということである。

現代の日本において、勉強するといえば、それは知識を身につけたり技術を身につけたりすることである。

しかし、松陰の時代においては、それらのこと以上に、人間を磨くということであった。

そのための方法論としては、

「其の詩を頌し、其の書を読み、其の世を論ず」

ということが、大切だという。

「書」とは、『国語』『戦国策』『説苑』といった歴代の論議集であり、「世を論ず」とは『春秋左氏伝』などの史書のことであり、『史記』などは、論議と史を合わせたものだという。

つまりは、東洋の古典を学ぶことこそが、学問の根本だった訳である。

この観点に立つと、戦後60年、日本においては勉強や学問をして来なかったと言っても、過言ではない。

その結果、日本人の品格や品位は、かなりのレベルまで低下していると思う。

ブログなどで、外国人と比べて日本人の素晴らしさを説く人も多いが、それは、かつての日本人が素晴らしかったのであり、現代に当てはまるのか、疑問が残る。

若い人のモラルを云々する人も多いが、私からすれば、恥知らずな行為を平気でしている五十代六十代の大人や年寄りの方が、ずっと気になる。

そして、昨今の政治家や官僚、企業経営者の体たらくを見ると、60年間勉強してこなかったつけを、今になって払っているということだろう。

吉田松陰の精神に改めて触れ、王道としての学問の復活を期待したいと思った夏休みの初日である。