ルールが人を自由にする

「刑法は犯罪者のマグナカルタである」

という言葉がある。

明確な法がない時代においては、被支配者は何をすれば罰せられるのか分からなかった。支配者たちは、恣意で罰したり賞したりしていた訳である。

ところが、法が明確になると、そこに記載されていないことは行っても罰せられることはない。ルールが明確になることによって、自由度が増すのである。

中国において、最初に成文法を制定したのは、春秋時代、鄭の名執政と賞賛を浴びた子産である。刑法を鼎に鋳って、人民に示したという。

この時、貴族階級の多くは、

「そんなことをしたら、人民は法の網目をかいくぐり、自分勝手をなして、国が混乱する」

と批判したという。

法(ルール)というものの本質が、この逸話に含まれていると思う。

つまり、本来、ルールというものは、支配者層を縛り、被支配者層に自由を与えるものなのである。

現代の企業において、支配者層と被支配者層というものは、それほど厳格ではないかもしれないが、理屈は同じだと思う。

ある時、ある会社で、それまでの組織体制を一変させ、各地の営業所を一種の独立採算制しようとしたことがあった。

私は、独立的な経営をおこなわせるのであれば、その権限を明確に文章で示すべきだろうと、その会社のトップに対して進言した。しかし、返ってきたのは不機嫌そうな表情であった。

この会社のトップは、本質的に分かっていたのである。

権限を明確にすれば、その権限内で営業所が行ったことに対しては文句が言えなくなる、ということを。

そして、権限内容があいまいであれば、上の人間は下に対して、何でも言える、ということを。

ただ、この人は上質な部類の人である。

ルールというものの本質を分かっていない企業人の方が多い。

ルールというものは、部下を縛るためにあるものであり、自分はルールを超越していると考えているのである。

このタイプの経営者や管理職にとって、ルールとは部下が守らなければならない事柄の一例であって全てではない。

ということは、自分の都合でいくらでも追加可能である。

3000年前の中国よりも酷いことをやりながら、少しも自分の愚劣さに気付いていない。

ただ、間違えないで貰いたいのは、部下と上司に適用されるルールは同じでなければならないということではない。

ルールの下には平等であっても、適用されるルールが違っていることはありえるし、当然のことであろう。

上司に求められることは、決まったルールを勝手に変えてはいけないということである。追加も削除も許されない。

変える必要がある場合は、それなりの手続を踏み、部下に対してはその理由を説明して、明確に文章化して示さなければならない。

これが、「法による支配」ということである。このことは国家や政治だけの問題ではないと思う。 人の集団を適切に運営する場合、どう行うべきかという長年にわたって蓄積してきた人類の知恵の結晶である。 1