『論語』不作為の悪

人は、本質的には、「悪」ではないと思う。

自ら積極的に悪を為す人は、数少ないであろう。

ただ、積極的に善を為すかといえば、そうでもない。

ドストエフスキーの言葉に、このようなものがある。

「私にはその行為に責任があるのだろうか?ないのだろうか?」という疑問が心に浮かんだら、あなたに責任があるのです。

責任とは、英語でいえばresponsibilityである。

bilityは能力であり、responseは反応することであるから、責任とは反応する能力である。

「私がやらなくて誰がやる」といった気概こそが、責任である。

責任感といってもいい。

論語における有名な言葉である

「義を見て為さざるは勇なきなり」

とは、こういうことであろう。

そして、この責任という観点から人生を振り返ると、

「それは僕の所為じゃない」

と、多くの場合に逃げてきたように思う。

悪を為さないからといって、それだけで善良と考えてはならない。

気づいていながら、もしくは気づかない内に、不作為の悪を為すのが人という生き物である。

出典 (明治書院)新釈漢文大系1『論語』60頁

為政第二

子曰、非其鬼而祭之、諂也。見義不爲無勇也。 子曰く、其の鬼に非ずして之を祭るは、諂い(へつら)ふなり。義を見て為さざるは、勇無きなり。