『淮南子』「知る」と「分かる」

コンサルタントや研修の講師が言うことは、ほとんどの場合、正しい。

たまに核心を外すことがあっても、間違いを述べることはまずないであろう。

コンサルタントや講師でなくても、人は間違ったことは言わないのかもしれない。

ただ、正しいことを言っているからといって、本当に分かっているかどうかは、別問題である。

目の見えない人に、「白」というのはどのような色かと尋ねれば、明るい色と答える。

「黒」はと訊けば、暗い色と答える。

「白」が何で「黒」が何であるか、知っているからである。

それではと、黒と白を並べて、どちらが黒でどちらが白かと訊いても、これは分からない。

知っているからといって、分かるとは限らない。

リーダーとはどうあるべきか?

マネジメントとはどうあるべきか?

正しい答えを言うことができたとしても、本当のところ、分かっているのか疑問である。

さらに、自分自身、ただ知っているだけなのか、本当に分かっているか、これが分からない。

さらにさらに、どうすれば分かるようになるのか、これも分からない。

「知る」と「分かる」の距離は、思っている以上に遠いようである。

出典 (明治書院)新釈漢文大系55『淮南子 中』楠山春樹著 467頁

巻九 主術訓

問瞽師曰、白素何如。曰縞然。曰黒何如。曰黮然。援白黒而示之、則不處焉。 瞽師(こし)に問いて曰く、白素とは何如(いかん)、と。曰く、縞然(こうぜん、縞とは「しろぎぬ」のこと)たり、と。曰く、黒とは何如、と。黮然(たんぜん)たり、と。白黒を援(と)りて之を示せば則ち處(はか)らず。