『戦国策』組織における地の鹽

管理職にとって部下育成は重要な仕事だと、よく言われている。

確かに、そうだと思う。

では、部下育成という難しい営みが高く評価させているかといえば、必ずしも、そうではない。

様々な企業の人たちと話をした時、

「彼は仕事ができる」

「彼にはリーダーシップがある」

といった類のことは良く聞くが、

「彼は部下を育てるのがうまい」

とか

「彼の部下からは優秀な人材が多く出てくる」

といった誉め言葉を聞くことは、皆無ではないが、数少ない。

いくら口で重要だと言われても、実際に高く評価されないのであれば、多くの管理職たちはモチベートされないだろう。

それどころか、今のご時勢、部下が成長して自分以上の力を発揮するようになれば、上司部下の立場が逆転してしまうかもしれない。

「己より優れたる者を部下とし、共に働く技を知れる者、ここに眠る」

これは、アメリカの鉄鋼王と言われたアンドリュー・カーネギーの墓碑銘とされているが、部下の方が優れていたら、あなたが部下になりなさいと言われてしまうのが、今のグローバル化した日本企業である。

育成とは少し観点は違うが、立派な人物、優れた人物を推挙することを、古代中国では高く評価した。

だから、孔子は、賢人は誰かと聞かれた時に、名宰相として有名な管仲(かんちゅう)ではなく、管仲を推薦した鮑叔(ほうしゅく)の名を挙げたのである。

そもそも、人には妬みの感情がある。負けたくないという感情もある。

このことを、『戦国策』では、

「妬む無くして賢を進むる者に至っては、今だ一人も見ざるなり」

と言い切っている。

何もしないでおけば、人は自分よりも優れた人物を推薦することはないし、部下を自分以上に成長させようとは思わない。

しかし、これでは組織は発展しないし、永続もしない。

優秀な人材に加わって貰うと共に、その人材が成長してこそ、組織は生き残っていくことができる。

そう考えると、部下育成に長けた管理職を、企業はもっと積極的に評価すべきなのである。

ところが、冒頭述べたように、実際は、そうなっていない。

あまり出しゃばらず、弁が立つ訳でもなく、個人的な能力も平凡だが、部下を活かし、その力を発揮させることがうまい、といったタイプの管理職がいる、

残念なことに、彼らが組織で出世することは稀である。

それどころか、彼らが業績を上げると、

「あいつは能力が無いが、部下に救われているんだ」

などと、返って馬鹿にされたりすることさえ、ある。

企業は、表面的なパフォーマンスを評価し、隠れて表には現れない努力や功績を見つけ出そうとはしていないからである。

しかし、こういったタイプの管理職こそが、組織における「地の塩」なのである。

彼らが、見えない部分で企業を支えてきたのである。

社員の成長や部下育成、そして大きく企業の再生ということを考えた時、コンピテンシーだ何だと評価の仕組みをいじることよりも、本当に評価すべきことは何なのかという根源の部分を、改めて真剣に考えるべきではないのかと、私は思う。