『国語』貧しさの栄光

季文子相宣成、無衣帛之妾、無食粟之馬(『国語』魯語)

魯の季文子という人は、宰相として、宣公、成公の二君に仕えたが、その家には、絹を着る妾もなく、穀物を食べる馬もいないほど、質素倹約であった。

仲孫它(ちゅうそんた)という若者が、言った。

「あなたは国で一番の権力者なのに、絹を着る妾もいなければ、穀物を食べる馬もいない。皆はあなたのことをケチだといっています。

また、宰相がこのようなことでは、みっともなくて国の栄光を損なってしまいませんか」

季文子は、これに對えて言った。

「私も贅沢はしたいのです。しかし、国民の多くは粗衣粗食の状態です。国民が粗衣粗食に耐えているのに、私だけが贅沢するのは、宰相としての行いとは思えません。

また、私は、徳が栄えることこそが国の栄光であると、聞いています。妾が絹を着て、馬が穀物を食べることが国の栄光だという話は、聞いたことがありません」

この二人の話を聞いた、仲孫它の父である孟獻子(もうけんし)は、怒って、仲孫它を七日間監禁した。

仲孫它は、自らのいたらなさを反省し、その後は、季文子の質素倹約に倣った。

季文子は、過ってもきちんと改めるのは立派な人物だとして、仲孫它を政府の高官に任命した、という。

『春秋左氏伝』襄公五年の記事にも、ほぼ似たような話がある。

季文子が死んだ時、その家には、絹を着る妾もなく、穀物を食べる馬もなく、余分な家具調度品もなく、金玉の蓄えもなかった。

周囲の人々は、宣公、成公、襄公と三代の君主に仕えた宰相でありながら、個人として私服を肥やさなかった季文子の偉さを改めて痛感した、という。

この、貧しいことが恥ではなく、立派なことであるという思想は、今の中国には残っていないのではないか、と思う。

残っているのは、日本である。

但し、消えつつある。

金儲けをし、豊かになるということは、成功の一つの尺度であり、否定してはならないことだと思う。 しかし、あくまでも一つの尺度であり、唯一ではないということを、忘れてはならないだろう。

出典 (明治書院)新釈漢文大系66 『国語 上』大野峻著 262頁

季文子相宣成、無衣帛之妾、無食粟之馬。仲孫它諫曰、子爲魯上卿、相二君矣。妾不衣帛、馬不食粟、人其以子爲愛、且不華國乎。文子曰、吾亦願之。然吾觀國人、其父兄之食麤而衣惡者、猶多矣、吾是以不敢。人之父兄食麤衣惡、而我美妾與馬、無乃非相人者乎。且吾聞以德榮爲國華、不聞以妾與馬。文子以告孟獻子、獻子囚之七日。自是子服之妾、衣不過七升之布、馬餼不過稂莠。文子聞之、曰、過而能改者、民之上也。使爲上大夫。

季文子、宣成(魯の宣公と成公)に相として、帛(きぬ)を衣(き)る妾(せう)無く、粟(ぞく)を食(は)む馬無し。

仲孫它(ちゅうそんた)諫めて曰く、子、魯の上卿と爲りて、二君に相たり。妾は帛を衣ず、馬は粟を食まず、人、其れ子を以て愛(をし)むと爲し、且つ國を華にせざるか、と。

文子曰く、吾も亦(また)之を願へり。然(しか)れども吾、国人を觀るに、其の父兄の麤(そ)を食ひて惡を衣る者、猶多し、吾、是(ここ)を以て敢へてせず。人の父兄は麤を食ら惡を衣て、我、妾と馬とを美しくするは、乃ち人に相たる者に非ざる無からんや。且つ吾、德榮を以て國華と爲すを聞くも、妾と馬とを以てするを聞かず、と。

文子、以て孟獻子(まうけんし、仲孫它の父)に告ぐ、獻子、之を囚(とら)ふること七日。是れより子服(しふく、仲孫它のこと)の妾、衣は七升の布(しちとうの布、粗末な布)に過ぎず、馬餼(ばき、まぐさ)は稂莠(らういう、雑草)に過ぎず。 文子、之を聞きて、曰く、過(あやま)ちて能く改むるは、民の上(かみ)なり。上大夫と爲さしむ。