日本と中国の古い関係

天皇家の姓は、「姫(き)」であるという説がある。

最近の話ではなく、大昔からある。

中国の史書に、倭の使節が自ら、私たちは太伯(たいはく)の子孫であると言ったと、記載されているからである。

使節が言ったから正しいとは限らない。

ただ、そういった伝承があったことは事実なのであろう。

中国の王朝を古い順に並べれば、夏(か)、殷(いん)、周(しゅう)となる。

殷を亡ぼしたのは、周の文王・武王の父子である。二人とも、最高の君主とされている。

文王の父を季歴という。

季歴には、兄がいて、長兄を太伯、次兄を仲雍(ちゅうよう)といった。

この二人の兄は、季歴に周の家督を継がせるために、出奔した。

このことから、太伯と仲雍の二人も、聖人とされている。

周の国は、今の陝西省にあったが、そこからはるか南東の江蘇省・逝江省あたりまで行った。

そして、建国したのが、「呉」という国である。

この呉の太伯の末裔が、天皇家であるという。

周の王室の姓は「姫」であるから、これが確かであれば、天皇家の姓も「姫」になるということである。

何時の時点で太伯の子孫が日本に渡ったかということだが、呉の建国は紀元前1000年より以前であり、倭の使者が、太伯の子孫であると述べたのは、紀元2世紀の頃の話である。

つまり、この1200年の中であれば、いつでもありえたであろう。

一時、北方の騎馬民族が朝鮮半島を経由して、日本に征服王朝を立て、それが天皇家であるという説が流行した。

しかし、稲作を含め、文化や風俗という観点からするなら、南方中国と日本の関係の方が、北との関係よりも深いのではないだろうか。

古事記を読む限り、土着の氏族が天皇家になったというよりも、外部からの征服王朝である可能性の方が高いと思う。

であるならば、呉の太伯の子孫が天皇家になったという説は、結構正しいのではないかという気がする。

人によって、中国の子孫だということに抵抗を感じる人もいる。

しかし、孔子によって最高の王朝とされた周の一族ということは、誇りを感じてもいいのではないだろうか。 もちろん、これが本当かどうかは、今はとなっては確かめようもないことであり、どうでもいいといえば、それはその通りである。