『孔子家語』マネジメントの語源

凛凛焉、若持腐索御扞馬(観思)

身を引き締めること、腐った縄で暴れ馬を御するようにせよ。

子路が、孔子に民を治める方法について質問した時の、孔子の答えである。

民を治めるということは、今の言葉でいえばマネジメントであろう。

人の発想は似通うもので、マネジメントという言葉も、元々は、馬を御するということらしい。

ただ、東洋の知恵からすると、単なる馬ではなく暴れ馬を、さらに、腐った縄で御するくらい、慎重にしなければならない、というのである。

当然、「何故、そこまで慎重さが必要なのか」という疑問を、子路は投げかけた。

それに對して、孔子は、

「相手は人間である。きちんと導けば家畜のようにおとなしく従ってくれる。しかし、一歩間違うと、仇のように逆らうようになる。どんなに慎重にしても、し過ぎるということはない」、と述べた。

何年か前に、ある営業マンと話をして、驚いたことがあった。

彼は、自分の上司を嫌いに嫌っており、僕にこう言った。

「私は絶対に目標100%はやりません。私が目標を達成して、その結果、上司が評価されるようになることだけは、嫌なのです。

たとえ、自分が損をしても、あいつが得することだけはしたくありません」、と。

支援者である筈の部下が、一番の敵となっていたという、悲しい話である。

部下を敵に回さないということは、上司にとって最低限やらなければならない取り組みであろう。

これが出来なくて、それ以上のことが出来る筈もない。

にもかかわらず、牛を棘の笞で打つようなマネジメントをしている上司は少なくない。

仕事が出来ないからといって、部下をネチネチと苛める上司も、少なくない。

一見反抗しそうにもない、その部下が、ある日、牙を剥かないことを祈るばかりである。

いや、ひょっとしたら、気付かない内に、陰口という毒をもられているのかもしれない。 当たり前のことだが、どんな部下であっても、人としての誇りと感情を持っているということを、上司は忘れてはならない。