「成功のごときは即ち天なり」という記事で、親孝行に徹しすぎたために、かえって親不孝になってしまった、晋の申生という太子の話を書いた。
敬老の日も近いということもあり、改めて、親孝行について書いてみたい。
中国は敬老の国であり、親孝行の元締めのような国であるから、孝子の話は多い。
ただ、どれも出来過ぎの感があり、今一つ面白くない。
その中で、これは好きだと思っているのが、郗超(ちちょう)という人の話である。
郗超は、東晋の時代の人である。
先ほどの、申生も晋という国の太子であったが、違う国である。
申生の晋は、今から2600年ほど前、春秋時代の晋であり、今の山西省あたりを治めていた。
郗超の晋(東晋)は、少し複雑である。
レッドクリフの曹操が建国した魏は、臣下の司馬懿(しばい)によって簒奪(さんだつ)され、この司馬氏が建国したのが晋である。
そして、この晋が、劉備の蜀と孫権の呉を亡ぼして、中国を統一する。
しかし、晋では、帝室の中の権力闘争が多く、しかも、北方や西方からの異民族の侵入に苦しめられた。
結局、この晋は匈奴によって亡ぼされてしまったが、司馬氏の一人である司馬睿(しばえい)が、都洛陽から、はるか南西の今の南京市付近へと落ちのび、改めて晋を建国した。
今から1700年ほど前のことである。
最初の晋は中国大陸の北西にあるから西晋と謂い、司馬睿の建国した晋を東晋と呼んでいる。
ちなみに、この東晋の場所は、三国志の呉の領土であった。
「呉」と「東晋」、東晋が亡んだ後に建国された
「南宋」
「南斉」
「梁」
「陳」と、
隋(ずい、遣隋使の隋である)が中国を統一するまで六つの王朝が連続したので、六朝時代(りくちょうじだい)と呼ばれる。
貴族文化が華やかなで時代であり、書の王羲之や陶淵明、竹林の七賢などは、この時代の人である。
ところで、中国は、この頃までは、北の黄河流域が文化の先進地域であった。
しかし、この東晋の建国により、揚子江下流域が栄えるようになり、それは現代にまで引き続いている。
さきほど、貴族文化が華やかであったと述べた。
それは、皇帝以上に、貴族が有力であったということである。
司馬睿(しばえい)は、北方から身一つで逃げ出したようなものであった。
多くの貴族の協力が無ければ、そもそも東晋を建国することは出来なかった。
日本でいえば、鎌倉幕府における将軍のような存在が、東晋の皇帝である。
ただ、日本では、執権の北条氏は将軍に取って代わろうとはしなかったが、西晋ではそうではなかった。
有力な貴族の一人である、桓温(かんおん)という人物は、自らが皇帝になろうとした。
補足説明が長くなったが、郗超(ちちょう)は、密かに、この桓温を擁立しようとしていた。
何故、密かかと言えば、郗超の父である郗愔(ちいん)が、帝室に忠実な人物であったからである。
郗超は、事が成った時は仕方無いとして、父を悲しめたくなかったのである。
ところが、若くして郗超は死の病を患ってしまった。
子として、親より先に死ぬのは、最大の親不孝である。
死の間際、郗超は側近に言った。
「私が死ねば、父は嘆き悲しみ、私の後を追って死んでしまうかもしれない」
そして、小箱を取り出し、死んだ後に父に渡すようにと、遺言した。
果たして、息子の死を知った郗愔(ちいん)は悲しみ、何も喉を通らないという有り様になってしまった。
そこで、郗超の側近は、ご子息からですと、小箱を渡した。
郗愔が小箱を開けると、中には多くの文書が入っていた。
それらの文書は、郗超が桓温と交わした謀反の紛れもない証拠であった。
郗愔は、「この不忠者が!」と激怒し、子を失った悲しみを忘れた、という。
親不孝が親孝行につながったといえる逸話である。 私は、申生よりも郗超の方が、本当の意味で親を大切に思っていたのでないかと、思っている。