おいしい話というものは、そうそう世の中にあるものではない。
何もせず、楽して儲けるなんてことが、出来る筈もない。
これは、子供でも分かる。
ところが、70歳の年寄りが簡単に騙されたりする。
詐欺は、もちろん詐欺する方が悪い。
しかし、騙される方の心理も、僕にはよく分からない。
詐欺までいかなくても、
「○○日で、○○語が話せるようになる」
とか、
「○○すれば人生で成功する」
とかいった話を、信じる人の心理が分からない。
ただ、「信じたい」という気持ちは、理解できる。
楽して儲かる方法や、語学がすぐに出来るようになる方法や、人生で成功できる方法や、タイムトラベルする方法があればいいなとは、僕も思う。
ただ、これは幻想であり、幻想と現実を一緒にしてはならないだろう。
竹林の七賢の一人である王戎が、七歳の時の逸話である。
子供たちと遊んでいると、道端にスモモの木があり、枝を折るばかりにたわわに実っていた。
子供たちは、スモモを取ろうと、我先にと駆け出した。
ところが、王戎だけは動かない。
近くにいた人が、なぜ、スモモを取ろうとしないかと尋ねた。
王戎は、
「誰にでも取れる道端で、こんなに実が残っているということは、苦いスモモだからでしょう」
と答えた。
はたして、取ってみると、食べられたものではなかった。
おいしい話は、道端に転がってはいないのである。
出典 (明治書院)新釈漢文大系77『世説新語 中』 目加田誠著438頁
雅量第六
王戎七歳、嘗與諸小兒遊、看道邊李樹多子折枝。諸兒競走取之、唯戎不動。人問之、答曰、樹在道邊而多子、此必苦李。取之信然。
王戎(おうじゅう)七歳、嘗(かつ)て諸小兒(しょしょうじ)と遊び、道邊(どうへん)の李樹(りじゅ)、子(し)多くして枝を折れるを看る。
諸兒、競い走りて之を取るも、唯(ただ)戎(じゅう)、動かず。
人、之を問う、答えて曰く、樹、道邊(どうへん)に在りて子(し)多し、此れ必ず苦李(くり)ならん。 之を取れば、信(まこと)に然(しか)り。