隣百姓

以前に、ある工場の組織活性化を手伝ったことがあった。

その時に、工場のある部門で、作業服を改善しようという話が持ち上がった。

その理由は煩雑になるので割愛するが、充分に納得できるものであった。

しかし、結局、その作業服の改善は行なわれなかった。

「作業服を改善するなら全工場を対象にしないと、不公平になる」という意見が出されたからである。

その部門だけであれば大した経費はかからないが、全工場となると対象者は数千人の規模になり、予算的に難しくなる。

何の改善も行なわれないよりは、一部分でも改善できれば良いのではと、私などは思うのであるが、それは許されなかった。

古い言葉に、隣百姓(となりびゃくしょう)というものがある。

お百姓に、「ご精がでますね。いい出来ですね」などと声を掛けると、「いえいえ、ただの隣百姓でございます」と返すのである。

要は、隣の家が種蒔きしたら、うちも種蒔き、雑草取りをしたら、同じように雑草取りという風に、隣の家に倣って物事を行なうことである。

「自分だけが特別なことをしない、目立たない、周囲に合わせる」ということは、農耕民族としての日本人の知恵であった。

しかし、この意識は、工業化しサービス経済化した現在でも生き残っている。しかも、根強く生き残っている。

高度成長期、日本の多くの若者は、この隣百姓を善とする雰囲気、田舎の濃密な人間関係から解き離れようとして、都会を目指した。

その頃の都会には、そして企業には、他人と同じではなく、他人以上に頑張ったものを評価する価値観があったからである。

高度成長期に対して、私たちが抱く明るいイメージの根底には、こういった意識や価値観の変化があると、私は考えている。

ヨーロッパにおいて、中世からルネサンスに移行したようなものであろうか。

ところが、国が豊かになるにつれて、国民の意識の中に、今を守りたいという欲求が強くなってきた。変な冒険をして失敗するよりも、現状を維持しようと思うようになってきた。

隣百姓の復活である。

しかし、農耕であれば、その良さを発揮できた隣百姓意識は、企業活動には適していない。「事なかれ主義」「前例重視」「横並び意識」といった隣百姓の悪い部分が噴出した。

そして、これらの弊害が、企業や社会の健全な発展を阻害し、今に到っている。

時代が、経済が、社会が混迷を深めつつある現在、隣百姓意識が払拭されつつあるかといえば、そうでもない。

今の私たちは、これから先が今よりも悪くなることを避けようとして、今を守ろうとしている。そしてこのことが、それまで以上に隣百姓意識を根強くしている。

極限状態の中に置かれてこそ、人はその本性を表すという。

民族も同じなのであろう。

隣百姓意識は、日本人の最も根っこにある本性であり、法の上に位置する最高教義である。

殺人や強盗といった刑法犯は別にして、日本では法を犯しただけで逮捕・検挙されたることはない。

捕まるのは、やり過ぎた場合である。

隣百姓を逸脱した場合である。

卑近な例でいえば、高速道路で、他の車が80キロで走っている時に、自分が90キロを出せば捕まってしまう。

しかし、100キロの速度を出しても、他の車と同じように走っている限りは、捕まることはない。

隣百姓でないことは、恥であり、嫌悪の対象になり、場合によっては罪になる。

しかし、私から言わせれば、この隣百姓意識こそが、国を損なう最大の要因である。隣百姓意識こそが、私たち日本人の最大の欠点であり、恥である。

価値観や文化、見た目、それぞれの違いを尊重し受容する精神の豊かさを、日本人には持って欲しいと、心から願っている。

また、それが無ければ、今こそ改革が必要といわれている日本の復活もないかもしれない。 改革は、今を否定し、自分とは違った意見を受け容れることが、その出発点である。隣百姓は現状を維持できても、改革はできないのである。 en1 \lsdunhi