百戦して99敗しても最後の一戦に勝てばその人が勝利者である

何事かで成功を収めることは、本当に難しい。

成功を収めるためには、素質(gift)と才能(ability)が必要である。

ここで、素質(gift)とは、まさしく贈り物である。

体格や筋力が優れていたり、頭脳が明晰であったりと、ほとんどが生まれた段階で決定されている能力である。

しかし、体格が優れていれば、それだけ優秀なスポーツマンになれるかといえば、決してそんなことはない。

頭脳が明晰であれば、立派な学者になれるかといえば、これもそんなに簡単なことではない。

素質(gift)を活かす力が必要であり、それが才能である。

様々な才能の中で、最も重要なものは、継続する力ではないだろうか。

様々な障碍に出会いながらも、挫けずに続けていく意志の力ではないだろうか。

そもそも、何事をなそうとした時、ことの始めから順調に進むなどということは、稀である。

偉人や成功者の物語などから、私たちが学ばなければならないことは、似非宗教のような成功法則ではなく、その挫けない心と障碍を解決しようとする工夫である。

よく「想えば叶う」などといった成功法則を耳にするが、そのようなことを私は信じない。

主観的な願望で客観的な事実を変えることは出来ない。

大切なことは、地道な工夫と努力の積み重ねだけである。

この工夫と努力の物語を、一つ紹介したい。

旅館などに行くと、一人用の鍋料理が出てくることがよくある。鍋の下には、小さな固形燃料が置かれている。

この固形燃料の開発は、次のようにして成し遂げられた。

1、ある兄弟が温泉宿へ行った。長風呂したため、すっかり料理が冷めてしまったという。温かい料理を食べたかったという思いが、二人の心に残った。

2、後日、釣りに行ったときに、キャンプ用の固形燃料を目にして、その応用を思いつく。

3、実は、兄弟の会社は石鹸を作る工場であり、当時、業績不振に喘いでいた。そして、固形燃料と石鹸は原料が似通っていた。

4、二人は、成分は固形燃料とほぼ同じだが、鍋用の燃料として販売しようと思いつき、有馬温泉に持っていった。この製品は、大きな缶から一回分毎に、適量を取り出すというものであった。

5、無理をいって使って貰ったのはいいが、取り出すときに、仲居さんの手が荒れるとのクレームが発生した。また、一回分の量が均等にならず、燃焼時間にムラがでるというクレームも出た。

6、そこで実験を行った。一人分の鍋料理に要する時間を計ったのである。その結果、約20分間の燃焼が必要だということが分かった。そこで、約20分間燃焼する分だけを、切り分けて販売することにした。

7、しかし、次には火力が強すぎる、また、眼も痛くなるとのクレームが発生した。

8、この解決策はなかなか見つからなかったが、ある時、洋菓子を見て、燃料をアルミ箔で包むことを思いつき、製品に改良を加えた。

9、これで万全と思っていたら、子供がお菓子と思い食べてしまうとのクレームが発生した。

10、そこで、全体をビニールで包み、表面に「食べられません」の文字を印刷した。また、過って子供が口に入れてもすぐに吐き出すように、苦い成分を配合した。

11、しかし、全体をビニールで包んでしまったために、ビニールが燃えてこびり付き、その掃除が大変とのクレームが、今度は出てきた。

12、そこで、またまた改良を加え、燃料の部分だけビニールで包むことにした。

13、ところが、クレームとまではいかないが、もっと火の付きをよく出来ればとの要望が上がってきた。燃料の表面のビニールが溶けなければ引火せず、それには時間がかかったからである。

14、そこで、ビニールの上から燃料に細い切込みを入れるという改善を加えた。このことによって、切り込んだ筋に燃料が溶けて溜まり、火が付きやすくなったのである。

商品化を思い立った時から、ここまで10年の月日を要したという。

この兄弟と同じような発想をした人間は数多かったのではないかと、思う。

しかし、この兄弟ほどの工夫や挫けない心を持ち続けた人間はいなかったのであろう。この小型燃料の関する特許は16件あるという。

私も含め、多くの人間は障碍に出会い、失敗した段階でやめてしまう。

失敗というものを、やめるべき合図と捉えているのである。

しかし、冒頭に述べたように、最初から全てが順調にいくのは稀である。

一回や二回の失敗で諦めていたのでは、人生には失敗しか残らなくなってしまう。

人の生き方は難しい。

人生の初期に栄耀栄華を極めた人間が晩年に悲惨な境遇に陥ることもあれば、苦難の日々が最終的に花開くこともある。

失敗は恥ではない。そもそも人生はほとんどが失敗で成り立っている。 恥ずかしいのは、失敗して「これは駄目だ」と簡単に諦めてしまったり、「私には所詮無理だ」と開き直って何もやらなくなってしまったりすることであろう。