昔を思い出しての愚痴

今日、あることで、ふと、昔のことを思い出した。

10年ほど前、私はある上場会社を中心とした企業グループの一員となった。

私の創業したクエストに資本参加をして貰ったのである。

そして、親会社のある人物が、私の会社の非常勤取締役となった。

私は相当いい加減な人間であるが、変に律儀なところもある。

月に一回、きちんと取締役を開催しようと、考えた。

そして、取締役会の招集通知を出した。

すると、親会社から電話がかかってきた。

上場企業である親会社はともかくも、子会社で月に一回、取締役会を開く例はないというのである。

そして、取締役の議題が問題だという。

私は、議題の中に、会社から抱えている様々な問題を提起し、取締役会で議論をして貰おうと考えていた。

そして、形式的ではない内容の伴った議事録を作成しようとも、考えていた。

ところが、相手が言うには、そういった難しい問題に対して意見を言うことで、責任を負いたくないと言うのである。

そもそも取締役会というのは、承認の場であって、議論の場ではないとも言われた。

私は、アホらしくなって、取締役会は開かないことにした。

ただ、もちろん、自分の社内だけで、幹部を集めての会議は、それまでと同じように開催していた。

それから、数年経った。

世間では、コンプライアンスということが、急に取り沙汰されるようになった。

親会社は、上場しているから、その影響をもろに被るようになり、内部統制や企業統治ということが、最優先の課題となった。

早速、監査などということになり、文句をつけられることとなった。

何故、取締役会を開いていないのか。

何故、議事録がないのか・・・等々。

昨日まで言っていたことと、今日言うことがあっという間に変わってしまう。

しかし、これも定見があってのことではない。あれば、許せる。

世間がそうなってきているという、一種の隣百姓意識である。

であるから、求められているのは、取締役会を開いたという実績であり、議事録という書類が残っているという事実であって、その中身ではない。

つまり、員数主義、形式主義である。

日本人は素晴らしい特質を備えていると思うが、この、隣百姓意識、員数主義、形式主義だけは、好きになれない。

そういえば、昔、役人を辞めるに当って、私は、原稿用紙で4、5枚の分量に相当する長文の辞表を書いた。

自分が何故、役人になろうと思ったか、そして、役人生活の間に何を思い、そして何故辞めるに至ったかを、書いた。

この辞表は受理して貰えなかった。

形式に合わないというのである。

「一身上の都合で・・・・」という、ありきたりな文面に直してくれと、言われた。

私は断った。

そして、辞表に書いた日から出勤を辞めてしまった。

ところが、次の月に給料が出たのである。

私は、辞めたことにはなっていなかった。辞表は上司の手元に残ったままで、私は休暇扱いになっていたのである。

つまり、私の辞表は形式に合っていないため、上司は、それを上に提出できずにいた訳である。

上司は、わざわざ、私の家にまで訪ねてきた。

そして、言った。

「お願いだから、書き直してほしい」

この上司を困らせる意図は、私にはなかった。

ただ、上層部に読んで貰いたいと思っていただけである。

しかし、上司の懇願に負けて、私は辞表を書き直した。

今からすれば、辞めるのであれば愚図愚図言わずに、さっと辞めればとも思う。

しかし、せっかく真剣に書いたのに、という気持ちは今でも残っている。

(愚痴というのは、書き出すと長くなる)

役所に入って、1年目くらいの頃である。

上司に呼ばれた。上司は、こう言った。

「出張の順番がきたけど、どうするかね?」

最初は、意味が分からなかった。

皆さんも分からないと思う。

かいつまんで、説明すると、こういうことである。

出張旅費という予算があるが、これは一種の役得もしくはヤミ給与なのである。

だから、貰える人は順番制になっている。

今回、私にその順番が来たということである。

ヤミ給与だから、実際に出張には行かなくても、それは構わない。

ただ、行かないからといって、役所に出てくる訳にはいかない。家で静かにしてなければならない。

(出張に行っていることになっているからである)

上司の、どうせ行かないだろうといった口調が気に障り、私は「行きます」と答えた。

そして、出張から帰ってきて、出張報告書を提出した。

ところが、これも受け取って貰えなかった。

形式に合わないのである。

どういった形式が良いのか、訊ねると、どこに行ったかという事実だけを書くようにと、言われた。

それであれば、数行で済んでしまう。

私は、出張報告書に、訪問先と共に、誰に会い、何を話し、何を感じたかを書いた。

質は別として、私は誉めて貰えると、実は期待していたのである。

しかし、考えてみれば、私の書いた報告書をスタンダードにすることは出来ない。

スタンダードにすれば、旅費だけ貰って出張に行かない人間は、報告書を書けなくなってしまう。

役所はそんな酷いことをしているのかと思う人もいるかもしれないが、これは30年も前の話であるから、今は、このようなことはない筈である。

考えなければならないのは、役所でなく民間であっても、似たような形式主義が、今でもまかり通っているということである。 形式主義、隣百姓意識に出会う度、私は、腹立たしさと共に、ある種の虚しさを感じてしまう。