いい会社は人を育てる

書くことを怠っていると、いざ何かを書かなければならなくなった時、億劫になり、書いても、その質は高いとはいえなくなる。

ところが、「継続は力なり」とはよく云ったもので、ブログを書いていると、自然に、書くことが苦でなくなってくる。

考えたことを、より正確に早く書けるようになってくる。自分の職業からしても、これは有難いことである。

コメントなどで、文章を誉められることもある。

いくつになっても、誉められることは、嬉しいことである。

私の職業は、簡単にいえば書くことと、喋ることである。

ところが、昔は、文章を書くのは大嫌いであった。

大学受験の際には、試験に小論文がある大学は全て避けたくらいである。

そんな私が、それなりに文章を書けるようになったのは、会社のお陰である。

始めて民間企業に勤めた時、私の上司は、私に毎日、日報を書くことを義務づけた。

私の業務は企画職であったから、営業のように毎日報告するような事は、あまりない。

「必要無いのでは」という私の意見を、その上司は、「必要性は私が判断する。とにかく、その日、考えたこと、思ったこと、疑問点、なんでもいいから書くように」と突っぱねた。

その日から、毎日毎日、日報を書き続けた。

1年経ち、2年経ち、3年経つと、文章を書くことができるようになった。

この他にも、数多くのことを、会社から上司から先輩から、私は学んだ。

これは、多くの職業人が実感していることだろう。

「職場は人生を学ぶ道場である」といった言葉がある。

学校教育は基礎の基礎であり、素晴らしく大事なものであるが、更に多くのことを会社は教えてくれた。

欧米などに比べて、日本企業の社員教育にかけるエネルギーやコストは、一般に多いとされている。

これは別に、会社の善意だけの話ではない。

日本の会社は、完全な終身雇用ではないにせよ、新卒を採用し、長い期間にわたって働いてもらうことを前提にしていた。

そのためには、社員が成長してくれなければ、困るのである。

古き良き時代には、この会社として社員に成長して貰いたいというニーズと、個々の社員の、成長したいというニーズが、見事に合致していた。

そこには、単に給料を貰っているから、その分、仕事をするとか、稼いだ分だけ金を払ってやるといった単純な合理性を超えた、何かがあった。

自らを成長させてくれる上司や先輩を尊敬し、生活の安定を保証してくれる会社に対する忠誠心があった。

私は、よく思ったものである。

学校で学ぶためには授業料を払わなければならないが、会社は仕事を教えてくれて、しかも給料を払ってくれる、何と素晴らしい存在なのだろうと。

ところが、昨今のように、業績不振となれば簡単に首を切るという風潮が広がるようになると、社員教育を行なう意欲を、会社は無くしていくかもしれない。

さらに、不況の中、業績を維持しようとなると、新卒採用も行なわなくなるかもしれない。

新卒社員が、会社の業績に貢献できるようになるには、平均3年くらいは必要である。それまでは、会社にとって、格好良く云えば投資、悪く云えば持ち出しである。

業績のことだけ考えるのであれば、何も知らない新卒を採るよりも、経験がある中途採用の方が良いのである。

すぐに成果につながるし、教育のコストも軽減できる。

しかし、このような短絡的な発想で、本当に日本は良くなるのであろうか。

日本人の能力や道徳心を、学校教育に代わって養ってきたのは、実は会社なのである。

しかし、多くの会社が、今や、その役割を捨てようとしている。

会社は、それが本来の姿だと言われればどうしようもないが、経済的存在に特化しようとしている。経済的合理性だけを、追求しようとしている。

漱石は、知に働けば角が立つ、情に棹さば流される、とかく人の世は住みにくいと嘆きながらも、どんなに住みづらくても、人でなしの国よりはましであろうと述べた。

人は経済的存在だけの生き物ではない。

にもかかわらず、経済的合理性だけを追求する国は、まさに人でなしの国である。

そして、人でなしの国を作るのは、人でなしの会社である。

現代社会における国力とは、経済力であり、経済力とは会社の力である。

会社が良くならなければ、国も社会も良くならない。 市場や顧客の重要性は充分に理解できるが、人でなしの会社が提供する商品やサービスが、人を本当に幸せにするのであろうか。