『韓非子』嘘と夢の違い

孔子の弟子である曾子の妻が市場へ買い物に出かけようとした。

子供が連れて行ってくれと泣いてせがむので、困った妻は、

「良い子で待っていなさい。帰ってきたら、豚を殺してご馳走を作ってあげる」

と言って、出かけていった。

妻が市場から帰ってくると、曾子が豚を捕まえて殺そうとした。

驚いた妻は、

「本気で豚を殺そうと思ったのではありません」

と、曾子に言った。

それに対して、曾子は、こう諭した。

「子供をだましてはいけない。子供はまだ分別というものがない。親が教え導いていかなければならないのだ。その子供をだませば、子供に嘘を教えることになる。また、母親が子供をだまして、子供が母親を信じないようになれば、これから先、どのようにして子供を教え導くことができるだろうか」

そうして、豚を殺して料理した。

なるほど、もっともである。

子供をだましてはいけない。嘘をついてはいけない。

しかし、ふと思う。

親は、子供に夢やロマンを語ることも多い。その多くは、嘘といえば嘘である。

例えば、サンタクロースがプレゼントをくれるというのは、どうだろう。

これも子供をだますことになるのであろうか。

ある程度の歳になり、実際はサンタクロースではなく親がプレゼントをくれていたということを知って、だまされたと思う子供は数少ないと思う。

ということは、嘘にも、許される嘘とそうでない嘘があるのだろうか。

それとも、すぐにばれる嘘は駄目で、そうでない嘘は良いのだろうか。

曾子の妻の嘘は、子供のことを考えた訳ではなく、自分の都合でついた嘘である。

とすると、相手のことを思ってつく嘘は許されるのだろうか。

真剣に考えると、なかなかどうして難しい。

出典 (明治書院)新釈漢文大系12 『韓非子 下』竹内照夫著 505頁

外儲説左上第三十二

曾子之妻之市。其子隨之而泣。其母曰、女還、顧反爲女殺彘。適市來。曾子欲捕彘殺之。妻止之曰、特與嬰兒戲耳。曾子曰、嬰兒非與戲也、嬰兒非有知也、待父母而學者也、聽父母之敎、今欺之、是敎子欺也。母欺子而不信其母、非所以成敎也。遂烹彘也。

曾子(そうし)の妻、市に之(ゆ)く。其の子、之に隨ひて泣く。

其の母曰く、女(なんじ)還れ、顧反(かへ)らば女の爲に彘(てい、豚のこと)を殺さむ、と。

市に適(ゆ)きて來(かへ)る。

曾子、彘を捕へて之を殺さむと欲す。

妻、之を止めて曰く、特(ただ)に嬰兒(えいじ)と戲(たはむ)れしのみ、と。

曾子曰く、嬰兒は與(とも)に戲るべきに非ず、嬰兒は知あるに非ざるなり、父母を待ちて學ぶ者なり、父母の敎(おしえ)を聽(き)く、今、之を欺(あざむ)かば、是れ子に欺くを敎ふるなり。

母、子を欺きて、其の母を信ぜざるは、敎(おしえ)を成す所以(ゆえん)に非ざるなり、と。 遂に彘を烹(に)る。