『韓非子』前にも進めず後ろにも引けず

中国の古典の素晴らしさは、読むたびに新しい発見があるということである。

韓非子を読んでいて、面白い話が目に留まった。

延陵の卓子という人物が馬車に乗って馬を御するとき、馬の前にはかぎ形をした「むながい」という馬具を付け、手には先に針の付いた鞭を持ったという。

要は、「むながい」という馬具で、馬が勝手に前に進まないようにして、鞭で自分の思う存分に走らせようということであろう。

しかし、馬からすれば、進もうとすると「むながい」で止められ、退こうとすると鞭で叩かれる。

進退窮まった馬は、横に飛び出したという。

この話は、どういう意味かというと、当時でいえば君主、今でいえば組織のリーダーが、同じようなことを部下にしていないかということである。

私自身、この馬と同じような経験をしたことがある。

以前にある会社でマネジャーをした時のことである。

当時の部下達は経験も浅く、能力も一人前とは言い難かった。そして、業績ももちろん低迷していた。

私は、まずは売上を挙げるしかないと判断し、重要な仕事は自ら行ない、表現は悪いが、部下を手足として使った。

このやり方が良かったかどうかは別にして、業績は向上していった。

そうすると、社長に呼ばれた。社長が言うには、

「業績が挙がってきたことはいい。しかし、社員が育っていないじゃないか」

このことには、特に反論はなかった。

私も次は部下育成だと考えていたからである。

そこで、私は、顧客を部下に引き継ぎ、出来るだけ仕事を任せるようにした。

仕事の効率はいくぶん低下し、仕事上のトラブルも以前に比べて増えてきたが、試行錯誤をさせなければ人は成長しない。

「船長は血が出るほどに舌を噛む」という言葉があるが、出来るだけ口出しを控えるように、努力した。

そして、少しづつではあったが、部下達が育ちつつあるという実感もわいてきた。

そうすると、社長に呼ばれた。社長が言うには、

「最近、君は部下にばかり仕事をさせて、自分では仕事をしてないじゃないか」

もちろん、部下育成をしながら、自分もプレイヤーとして頑張り、業績を挙げる、これが一番良いことであろう。

しかし、それは理屈であり、実際は、そんなに簡単なものではない。

宅急便を始めたヤマト運輸の故小倉昌男氏は、著書の「経営学」で、駄目な経営者のやり方を、こう述べている。

『・・・毎年、期の始めになると売上高の目標は対前年10%増と示され、絶対に目標を達成せよと厳命が下される。

半期が終わり、売り上げはそこそこ目標に近づいたが、営業利益が目標より低いと、売り上げは多少足りなくなってもいいから、利益率の低い仕事はやめ、利益の目標は達成せよと指令が下りる。

安全月間になるともちろん“安全第一”の号令が下る。製品のクレームが来ると、品質第一で頑張れと命令が下る』

まさに、「むながい」と針の鞭である。

話を韓非子に戻すと、彼が強調していることの一つに、部下に兼職をさせるなということがある。

要は、目的・目標を明確に一つにして、それに邁進させろというのである。

韓非子の言うことが正しいかどうかはわからない。

しかし、最近の組織が、一人の人間に多くは求めていることは間違いない。

例えば、営業の管理職であれば、売上を挙げろ!利益を考えろ!部下を育てろ!売れない時は自分で売れ!クレーム処理をしろ!他部門との連携を考えろ!コスト意識を持て!経営者意識を持って仕事をしろ!現場のことを考えろ!・・・と、きりが無いくらい多くのことを求められる。

これはもう、普通の人間が処理できる範囲を超えているのではないだろうか。

しかも、それぞれ優先順位があれば、まだいい。

ところが多くの場合、優先順位はなく、かつての私のように、何かをうまくやっても、違う何かで批判されてしまうのである。 さらに言えば、管理職にこれだけ多くのことを求めて、経営者は何をするのだろうかと疑問を感じてしまう。