『論語』部下を褒めるということ

企業の管理職研修では、よく「部下を褒めろ」と教えている。

僕は、この考え方は、それほど好きではない。

どうも上から目線という気がする。

傲慢な匂いもする。

人は思いの外、正直な生き物だと思う。

「良い」と感じれば、自然に褒め言葉は出るだろう。

それを強いて、「褒めろ」というのは、孔子の言う「巧言令色(口先がうまくて愛想がいい)」ではないだろうか。

確かに、人は褒め言葉には弱い。

それは、上司も部下も同じである。

部下から上司への褒め言葉が、お世辞である。

「そんなことはないよ」などと口では否定しても、お世辞を言われると嬉しいものである。

しかし、お世辞には真心はない。

心にもない褒め言葉もお世辞も、簡単にいえば嘘である。

お互いが嘘を言い合っていたのでは、社会は成り立たない。

だから、孔子は、「巧言は徳を乱す」と言ったのである。

道元は、「愛語よく回天の力あることを学すべきなり」と説いた。

道元の言う「愛」とは、孔子の言う「仁」であろう。

相手をおもう真心から出た言葉こそが大事なので、そこに作為があってはならないと思う。

こう考えると、「部下を褒めろ」というよりも、「人(部下)をけなさない」そして「優しい話し方をする」という二つの方が、より大事だと思う。

出典 (明治書院)新釈漢文大系1『論語』吉田賢抗著 19頁

學而第一

子曰、巧言令色、鮮矣仁。

子曰く、巧言令色、鮮(すくな)いかな仁。

同じく『論語』123頁

公冶長(こうやちやう)第五

子曰、巧言、令色、足恭、左丘明恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人、左丘明恥之。丘亦恥之。

子曰く、巧言、令色、足恭(すうきょう、過度にうやうやしいこと)、左丘明(さきうめい、人名)之を恥づ。

丘(きう、孔子のこと)も亦(また)之を恥づ。

怨みを匿(かく)して其の人を友とするは、左丘明(さきうめい)之を恥づ。

丘(きう)も亦(また)之を恥づ。

同じく『論語』353頁

衛霊公第十五

子曰、巧言亂德。 子曰く、巧言は德を亂(みだ)る。