ここ数年、元旦に決意することは同じである。
やさしい人になる、このことだけである。
僕は、やさしいタイプではなかった。
また、義理と人情、もしくは正義と人情を秤にかければ、正義を選ぶべきだと、幼い頃から考えてきた。
しかし、人に対してやさしくない正義が、本当に正義の名に値するのかと、疑問を抱くようになった。
そもそも正義というものは、かなりあやふやなものだし、また、危ういものでもある。
その正義を振りかざし人を裁くことは、人として傲慢なことでもある。
新約聖書にも「裁いてはならない。そうすればあなたも裁かれないであろう」(マタイ7-1)とある。
正義よりも大事なことは、人として生まれたからには、まず人に対するやさしさであろう。
それも、孔孟的には、まずは家族に対するやさしさであり、そこから始まって地域、国、世界へと広がっていくべきなのだろう。
身近な人間にだけにやさしいというのも困るが、身近な人間にやさしくできない者は、人とはいえない。
出典 (明治書院)新釈漢文大系1『論語』吉田賢抗著 96頁
里仁第四 「夫子一貫の章」
子曰、參乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣。 子曰く、參(しん)や、吾が道は一以て之を貫くと。曾子曰く、唯(ゐ)と。子出づ。門人問ひて曰く、何の謂(いひ)ぞやと。曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみと。