『論語』人材育成の対象

先日、ある人材育成のセミナーに出席した。

セミナーの最後に、出席者の一人が講師達に質問した。

「人材は、優秀な2割、平均的な6割、そして駄目な2割に分かれると聞きましたが、この駄目な2割に対する育成は、どう考えればよいのでしょう?」

講師は、それぞれに様々な見解を述べた。

確かに、難しい問題だと思う。

そこで、『論語』に書かれていることを紹介したい。

上知と下愚とは移らず。

つまり、天才と馬鹿とは教育できないということである。

この考え方が、僕も最も正しいと思っている。

ただ、これだけだと生まれつき駄目な人間には手の施しようが無いという、いささか冷酷な考えに思われてしまう。

実は、先ほど紹介した文の前に、孔子は、こうも述べている。

性相近し。習相遠し。

つまり、生まれつきには大きな違いがない。その後の教育で違いが出るのだ、ということである。

さらに、似たような意味で、こうも述べている。

敎(をしへ)有りて類無し。

人は、教育によって善くもなり悪くもなる。最初から人としての種類が決まっている訳ではない、と。

これらを総合して言えば、天才と馬鹿とを教育することはできないが、天才も馬鹿も、滅多にいるものではない、ということである。

あいつは優秀だ、あいつは駄目な奴だという区別自体が本当に正しいのか、まずはそのことを問い直すことが重要であろう。

出典 (明治書院)新釈漢文大系1 『論語』吉田賢抗著 379頁

陽貨第十七

子曰、唯上知與下愚不移。

子曰く、唯(ただ)上知と下愚とは移らず。

359頁 衞霊公第十五

子曰、有敎無類。

子曰く、敎有りて類無し。

378頁 陽貨第十七

子曰、性相近也。習相遠也。 子曰く、性相近し。習相遠し。