『論語』イエス・バット法

庭で揺れてるスモモをみれば

あなたの姿が目に浮かぶ

会いにゆこうと思ってみても

あまりに遠い二人の距離(あいだ)

「あの娘が好きだ。今すぐでも会いたいと思う。でも家が遠くて・・・」

こんなことを言っている内は、本当は好きじゃないのだ、と孔子は言う。

論語というと、ただただ固くて面白くない本というイメージだが、こんな粋な話も載っている。

本来、孔子は愛(仁)や情を最も大切にした人であり、決して堅物ではない。

ところで、この「・・・だと思う、でも・・・」という言い方は、私たちの得意な論法だと、思う。

言い訳をする場合などに、よく使われる。

イエス・バット法という名前もある。

「タバコは止めた方がいいと思う、でも・・・」

「早起きしようと思う、でも・・・」

言い訳であるから、前半のイエスの部分にくることは、善いことが多い。

「人を騙した方がいいと思う、でも・・・」という風には、あまり使わない。

つまりは、何が善いことなのか、本来、何をすべきなのか、分かっているということであろう。

分かっているということは、分かってないことに比べたならば、比較にならないほど素晴らしいことである。

「言い訳」をするなと、怒る人がいるが、こういった類の言い訳は、決して悪いことではない。

悪いのは、言い訳ではなく責任転嫁である。

例えば、

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出典 (明治書院)新釈漢文大系1『論語』吉田賢抗著 216頁

郷党第十

唐棣之華、偏其反而。豈不爾思。室是遠而。子曰、未之思也。夫何遠之有。 唐棣(たうてい、にわざくら、すもも)の華、偏として其れ反せり。豈(あに)爾(なんぢ)を思はざらんや。室是れ遠ければなりと。子曰く、未だ之を思はざるなり。夫れ何ぞ遠きこと之れ有らんや。