『蒙求』親孝行の一つの形

後漢の時代に毛義という人物がいた。

家は貧乏だったが、親孝行で有名だったという。

その高名を慕って、張奉という人が訪ねてきた。

お互いに席についた時、役所から毛義を地方の長官にするとの知らせが届いた。

毛義は、いかにも嬉しそうであった。

その様子を見ていた張奉は、

「何だ、結局は出世したいだけの俗物ではないか」

と幻滅し、引き留められるのを振り切って去って行った。

ところが、毛義は、その母が死ぬと、官を去り、その後も、何度も要請されたのにもかかわらず、高位高職につくことはなかった。

後にそのことを知った張奉は、毛義の真の姿を見抜けなかった自分を反省し、嘆いて言った。

「あの時、毛義先生が喜色をあらわしたのは、出世したかったのではなく、親のためだったのだ。いわゆる、家が貧乏で親が老いている場合は、仕官して俸禄を得て親を安心させる、ということだったのだ」、と。

出典 (明治書院)新釈漢文大系58 『蒙求 上』早川光三郎著 240頁

「毛義奉檄」 後漢毛義字少節、廬江人。家貧以孝行稱。南陽張奉慕其名、往候之。坐定府檄適至、以義爲守令。義奉檄而入、喜動顔色。奉者志尚士也。心賤之、自恨來、固辭而去。及義母死、去官行服。數辟公府爲縣令、進退必以禮。後擧賢良、公車徴不至。張奉歎曰、賢者固不可測。往日之喜、乃爲親屈。所謂家貧親老、不擇間而仕者也。