『蒙求』瓢箪は鳴るか鳴らぬか秋の風(漱石) 

東洋の、貧しさをかっこいいとする思想は素敵である。

徒然草の第十八段に、次のような文がある。

唐土に許由といひける人は、更に、身に随へる貯へも無くて、水をも手してささげて飲みけるを見て、なりひさごといふ物を、人の得させたりければ、或時、木の枝に懸けたりければ、風に吹かれて鳴りけるを、喧(かし)ましとて捨てつ。又、手に掬(むす)びてぞ水も飲みける。いかばかり心のうち涼しかりけむ。

訳すほどのこともないが、訳すと、

中国の許由(きょゆう)と言う人は、何一つ持っていない人で、水も手ですくって飲んでいた。

それを見た人が、瓢箪を送った。

ある時、瓢箪を木の枝に懸けていると、風に吹かれて鳴ったので、やかましいと思い捨ててしまい、また、手で水をすくって飲むようになった。

なんと、さわやかな心情であろうか。

ということであろう。

細かい話だが、ネットで公開されている徒然草のある現代語訳を見ると、

「瓢箪を許由に送った人が、瓢箪を木に懸けた」と訳してあった。

これは、原文を知らないことによる誤りだろうと思う。

この徒然草の兼好法師が読んだと思われる原文は、以下の通りである。

許由、箕山に隱れ、盃器無し。手を以て水を捧げて之を飲む。

人、一瓢を遺り、以て操(と)りて飲むことを得たり。

飲み訖(を)はりて木の上に掛くるに、風吹き瀝瀝(れきれき)として聲有り。

由、以て煩はしと爲し、遂に之を去る。

つまり、瓢箪を貰った許由自身が、水を飲み終わった後に木に掛けていたら、音がしたのである。

何にせよ、許由のこういった態度を素晴らしいとする東洋の感性を、今後も忘れてはならないと思う。

出典 (明治書院)新釈漢文大系58 『蒙求 上』389頁

許由一瓢

逸士傳、許由隱箕山、無盃器。以手捧水飲之。人遺一瓢、得以操飲。 飲訖掛於木上、風吹瀝瀝有聲。由以爲煩、遂去之。