『荘子』泥棒の道

日本で大泥棒といえば、石川五右衛門だが、古代中国では、盜跖(とうせき)である。

ある時、子分が盜跖に尋ねた。

「泥棒にも道というものがあるのでしょうか」

盜跖は答えた。

「当り前だ。何をするにしても道が無いということは無い」

そして、続けて言うには、

盗もうとする部屋に何があるのかを当てるのが、聖だ。

入る時に先頭に立つのが、勇だ。

出る時にしんがりを務めるのが、義だ。

うまくいくかどうかを見分けるのが、知だ。

分け前を公平に分配するのが。仁だ。

この、聖・勇・義・知・仁の五つを備えることなく、大泥棒になれた者は誰もいない、と。

一芸に秀でた者は百芸に通ずるというが、物事の真理は共通しているということだろう。

出典 (明治書院)新釈漢文大系8 『荘子 下』 市川安司、遠藤哲夫著 331頁

外篇胠篋(きょきょう)第十

故、跖之徒問於跖曰、盜亦有道乎。跖曰、何適而無有道邪。夫妄意室中之藏、聖也。入先、勇也。出後、義也。知可否、知也。分均、仁也。五者不備而能成大盜者、天下未之有也。

故(むかし)、跖の徒、跖に問ひて曰く、盜にも亦(また)道有るか、と。

跖曰く、何(いず)くに適(ゆ)くとして道有ること無からん。夫れ妄(みだ)りに室中之藏を意(おも)ふは、聖なり。入るときに先んずるは、勇なり。出づるとき後るるは、義なり。可否を知るは、知なり。分つこと均(ひと)しきは、仁なり。 五者備はらずして能く大盜を成す者は、天下に未だ之有らざるなり、と。