『老子』リバタリアニズム

弓に弦をはるときに、上の部分は下に抑えて、下の部分は上に挙げようとする。

理屈に合った行いであり、天の道とは、そのように理屈にあったものである。

それは例えば、雨が窪みにたまれば、溢れて低い所に流れ出すようなものである。

天は、多い部分を減らして、少ない部分を多くする。

ところが、人の世は違う。

少ない部分はさらに減らして、多い部分をさらに多くする。

つまり、金持ちに金は集まり、貧乏人はさらに貧乏になる。

格差ができるのは、人の世の常だということである。

そして、金持ちがその財産を社会のために役立てようとすることは、稀なことなのである。

人の世がそうであるとするならば、自由を極限まで追求しようとするリバタリアニズムには、やはり問題があるだろう。

放っておけば、格差が格差を生む。

地球規模で考えたとき、同じ人間がこれほどまでに格差がある生活をしている時代は、無かったのではないだろうか。

ただ、僕は、規制を廃してできるだけ自由にという考え方が、基本的には好きである。

かなりの部分で、リバタリアニズムに共感しているのである。

しかし、好きだから正しいというものではない。

リバタリアンの論理は、やはり強者の論理であり、人に対する愛といった部分が欠落していると、考えた方が良いのかもしれない。

正直、自分としての結論が、今も出せずにいる。

出典 (明治書院) 新釈漢文大系7 『老子德經下』125頁

天道第七十七

天之道其猶張弓乎。高者抑之、下者擧之。天之道損有餘而補不足。人之道則不然。損不足以奉有餘。孰能有餘以奉天下。唯有道者。

天の道は、其(そ)れ猶(な)ほ弓を張るがごときか。

高き者は之を抑へ、下(ひく)き者は之を擧(あ)ぐ。

天の道は、餘(あまり)有るを損(へら)して、足らざるを補ふ。

人の道は則ち然(しか)らず。足らざるを損(へら)して以て餘(あまり)有るに奉ず。 孰(たれ)か能く餘(あまり)有り以て天下に奉ぜん。唯(ただ)有道者のみ。