『戦国策』悪いことしたときは ごめんなさいっていうんだゾ

「清濁併せ呑む」といった言葉がある。

世の中は、綺麗ごとだけではすまされないということであろう。

社会には善人ばかりがいる訳ではないから、当然といえば当然であろう。

しかし、そのことと「正しさ」の追求は本来、別のことである。

ところが、正しさを追求すると、青臭いとか世間知らずとか言われてしまう。

不思議な話である。

クレヨンしんちゃんによると、

「悪いことしたときは ごめんなさいっていうんだゾ 幼稚園じゃ皆そうしてるゾ」

ということになるのだが、大人になると、悪いことをしても謝らなくなってしまう。

ある企業グループの社長会でのことである。

一人の社長が発言した。

「私の会社の業績は悪化しており、力足らずであると反省している。責任をとって、自分自身を減給にしたい」

つまりは、謝った訳である。

しかし、この発言内容は、許されなかった。

これを許せば、他の業績が悪い会社の社長も、減給しなければならなくなる。

自分勝手なパフォーマンスをするな、ということになってしまった。

今や、大人の社会における判断基準は損得だけである。

どんなに悪いことであっても、得になれば許され、正しいことでも損につながるのであれば、否定される。

コンプライアンスという言い方をすれば、もっともらしいが、要はルールを守りましょうということである。

いい年をした大人と、その大人が集まって作った組織が、ルールを守らなければ駄目ですよと、叱られている訳である。

しんちゃんが知ったら、笑うであろう。

中国の戦国時代、史疾(ししつ)という人が楚の国に使者として赴いた時の話である。

楚王が、

「あなたは何を貴んでいるか」

と問うた。

史疾は、

「私は『正しさ』を貴んでいます」

と答えた。

楚王「『正しさ』ということで、国を治めることができるのか」

史疾「できます」

楚王「楚の国には盗賊が多い。『正しさ』で盗賊をふせぐことができるか」

史疾「できます」

楚王「どのようにするのか」

この時、ちょうど屋上に鵲(かささぎ)が止まっていた。

史疾が、あの鳥は楚では何というかと聞くと、「鵲だ」という。

あの鳥をカラスと言ってもいいかと問うと、「それは正しくない」という。

これを聞いて、史疾は言った。

「王の国には、大臣もいれば犯罪を取締る役人もいます。これらの人を任命する時には、全て廉潔で任務を遂行する能力を持っているとして、任命しています。

ところが、実際には国も治まらず、盗賊も好き放題にしています。これは、鵲を鵲とせず、カラスをカラスとしていないということではないでしょうか」、と。

『正しさ』とか『正義』という概念は、危険な概念である。

以前にも書いたが、人は自分が正しいと信じると、どのように酷いことでもしてしまうからである。

その意味で、『正しさ』だけを判断基準にする社会よりは、損得だけを判断基準にする世の中の方が、まだ、ましかもしれない、とも思う。

しかし、今の日本ということを考えた場合は、もう少し正邪の判断基準を取り入れるべきであろう。 警察が裏金を作ることが当たり前、といった社会が、長続きする筈もない。 0