『左伝』深淵を覗くと

相手がこちらに対して丁重であれば、こちらも相手に対して丁重になる。

この反対に、相手が横暴であれば、こちらも仕返しをしたくなる。

テロや戦争は、往々にして、このように始まる。

意味なく無道に家族や友人が殺されたならば、同じように仕返したくなるのが、人間であろう。

しかし、相手が無道であるからといって、こちらも無道になって良いのか、ここが難しいところである。

紀元前6世紀中国、北方の大国である晋と南方の楚が、覇権を争っていた。

楚の公子であった囲は、甥で国王であった郟敖(こうごう)を殺して、即位した。

後に、霊王と呼ばれる。

霊王は傲慢であり、野心に燃え、盛んに他国に干渉した。

また、晋に対して、公女との婚約を要請した。

この公女を、楚に送っていったのが、晋の正卿であった韓起と大夫の叔向であった。

折角、公女を送っていったにもかかわらず、楚の対応は無礼なものであった。

それどころか、霊王は、

「韓起の足を切って門番にし、叔向を去勢して宦官にして、晋に恥をかかせよう」

とまで考えていた。

しかし、楚の大宰の諫言で、韓起と叔向は、何とか事なきを得た。

翌年、今度は、楚の公子である棄疾が、答礼のために晋にやってきた。

その際の出来事が、今回の話である。

晋の平公は、韓起や叔向が辱められたことを、当然知っていた。

そこで、楚の棄疾に対しても、礼を尽くした対応をしないでおこうと、考えた。

ところが、それに対して叔向は諫言した。

「間違っているのは、楚の方です。

何で、間違いに合わせる必要があるのでしょうか。

『詩』にも、上の人間のやることを、下の人間は真似する、とあります。

相手が間違っていても、こちらは正しいことをしましょう。

『書』によると、聖人が則を作る、とされています。

つまり、正しい人のやり方に則るべきで、間違った者のやり方に則ることはないでしょう」

この諫言を受けて、晋の平公は、棄疾を歓迎した。

叔向は、春秋時代の名臣の一人である。

後に、彼がいる限り晋を滅ぼすことは出来ないと、言われた。

悪を相手にする時には、こちらは善にならなければならない。

気を付けなければならないのは、勝つことにとらわれ過ぎて、こちらも悪になってしまうことである。

こちらも悪になれば、悪を批判することはできなくなるからである。

ニーチェの言うように、深淵を覗くときには、深淵もまた、こちらを覗くのである。

出典 (明治書院)新釈漢文大系32『春秋左氏伝 三』鎌田正著 1306頁

昭公六年

韓宣子之適楚也、楚人弗逆。公子棄疾及晉竟。晉侯將亦弗逆。叔向曰、楚辟我衷。若何效辟。詩曰、爾之敎矣、民胥效矣。從我而已。焉用效人之辟。書曰、聖作則。無寧以善人爲則。而則人之辟乎。

韓宣子(韓起、晉の正卿)の楚に適(ゆ)くや、楚人、逆(むか)へざりき。

公子棄疾(きしつ、楚の共王の子で霊王の弟、後の平王)、晉の竟(さかい)に及ぶ。

晉侯(平公)も、將(まさ)に亦(また)逆(むか)へざらんとす。

叔向(しゆくきやう、羊舌肸《ようぜつきつ》、晉の大夫)曰く、楚は辟(よこしま)にして我は衷(ただ)し。

若何(いかん)ぞ辟(よこしま)に效(なら)はん。

詩に曰く、爾(なんぢ)の敎(おし)ふる、民、胥(あひ)效(なら)ふ、と。

我に從(したが)はんのみ。焉(いづ)くんぞ人の辟(よこしま)に效(なら)ふを用ゐん。 書に曰く、聖は則を作(な)す、と。無寧(むしろ)善人を以て則と爲さん。而(しか)るを人の辟(よこしま)なるに則(のつと)らんや。