『孟子』自責と他責

連休が終わり、普通の生活が始まる。

家族や友人と過ごした和やかな時間は終わり、また様々な人たちと関わって生きていかなければならない。

素晴らしい人もいれば、禄でもない人もいるのが世間である。

腹が立ったり、悔しく感じたりすることも、多いであろう。

孟子は言う。

人に親切にしても、人から親切にして貰えない場合は、相手を怨まずに自分自身の親切の在り方を反省しろ、と。

また、人を指導しても、人が従わない場合は、相手を怨まずに自分自身のやり方に問題がないかどうかを反省しろ、と。

こちらがエチケット・マナーをきちんと守っているのに、相手がそうでない場合は、相手を怨まずに自分自身に敬意が足らなかったのではないかと反省しろ、と。

実に、儒教的な考えである。

相手を変えようとするのではなく、自分自身を変えろということである。そして、自分が変われば相手も変わるという考え方である。

「自責と他責」という考え方も、これに似ている。

何か問題が起こった時、自分が悪かった、自分に責任があるとするのが、自責である。

そして、自分自身を改めよ、というのである。

この反対に、自分は悪くない、他が悪いのだとするのが、他責である。

人によっては、「自責」こそが素晴らしく、「他責」は駄目だと、簡単に結論を下す。

しかし、常に自分に責任がある、自分が悪いという考え方は、真面目に考えすぎると、自分を亡ぼしてしまう考え方である。

「人は、世間に絶望しても自殺しないが、自分に絶望すると自殺してしまう」、という言葉だってある。

「物事は自責で考えましょう」という人は、気付かない内に、儒教の影響を、しかも、ごく浅い理解で受けているということであろう。

先ほど紹介した孟子の話は、自責の大事さを述べたものであるが、孟子には、この後がある。

それは、こういうことである。

自分自身で反省してみても、自分に非がない、とする。

ところが、それでも、相手が親しまず、従わず、敬意を払わないといった場合、その相手は妄人(狂った人間)である。

妄人ということは、禽獣と何ら変わりはない。禽獣に腹を立てても仕方がないではないか、と。

人を獣呼ばわりするとは何事だと怒る人もいるかもしれない。

しかし、人の姿格好をしているから、人だというものでもないだろうと、私は思う。

幼いわが子を殺す母親、教え子を強姦する教師など、まさしく禽獣であって人ではない。

散歩をしていて、犬が吠えてうるさい、などということがたまにある。

しかし、犬に腹を立てても仕方がない。

電車の中で、エチケットを全く無視した行動を取っている人間がいる。

腹が立つのは、対等の人間だと思うからである。

犬だと思えば、腹も立たないであろう。

大事なことは、自分自身が禽獣にならないことである。

自分自身が、人としてきちんとした行動を取り、人の役に立っているかを考えることである。

そう考えると、いかに自分自身が至らない人間であるかという反省が生れる。

このことを、孟子は、

「君子は終身の憂(うれい)あるも、一朝の患(うれい)なきなり」

と表現した。

「終身の憂」とは、自分が人として世に役立っているかということであり、「一朝の患」とは、ちょっとしたことで、一々、人や世間に対して腹を立てることである。

こう考えると、本当に意味での自責とは、「終身の憂」を持つことなのであろう。 何でもかんでも自分に責任がある、といった単純なものでは決してない筈である。 0 &��