『孟子』性善ということ

泥棒、傷害、殺人など、罪を犯す人間は多い。

しかし、それらの罪が良いことであると考える人間は、数少ないであろう。

ほとんどの人は、いけないと分かりながらも、罪を犯すのである。

いけないということが分かっているということは、人の本性は悪ではないということだろう。

それが、孟子の言う性善である。

子供が井戸に墜ちそうになっている場面に出会わしたら、助けようとする人間の方が圧倒的に多い筈である。

その行動は、後から子供の親に取り入りたいとか、あの人は偉い人だと周囲の人たちから褒められたいとか、子供を助けなかったといって非難されたくないといった、いわば利害から来ているものではない。

純粋に、危険にさらされた子供を思う気持ち、人として人を大切にしようという気持ちからである。

もし、人として人を大切にしようという気持ちが無いとするならば、それは、もはや人ではない。

同じように、恥じる気持ちを持っていない者、人に対して讓る気持ちを持っていない者、善悪の判断がつかない者、それらは、もはや人ではない。

しかし、そういった人ではない人は、ごくごく少数であろう。

出典 (明治書院)新釈漢文大系4『孟子』 内野熊一郎著 110頁

公孫丑章句上

今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心。非所以内交於孺子之父母也。非所以要譽於郷黨朋友也。非惡其聲而然也。由是觀之、無惻隱之心、非人也。無羞惡之心、非人也。無辭讓之心、非人也。無是非之心、非人也。

今、人、乍(たちま)ち孺子(じゅし)の將に井(せい)に入らんとするを見れば、皆、怵惕(じゅつてき)・惻隱(そくいん)の心あり。

交わりを孺子の父母に内(い)るる所以(ゆえん)に非ざるなり。

譽(ほまれ)を郷黨(きょうとう)・朋友に要(もと)むる所以に非ざるなり。

其の聲を惡(にく)んで然(しか)るに非ざるなり。 是によりて之を觀れば、惻隱の心無きは人に非ざるなり。羞惡(しうお)の心無きは、人にあらざるなり。辭讓の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは人に非ざるなり。