『六韜』評価

「評価」によって処遇は決まる。

組織にとっても個人にとっても「評価」は、その命運をわける重大事である。

しかし、どういった風に評価すれば良いかについては、よく分かっていない。

評価者研修などの内容をみても、要は客観的かつ公平に評価しなさいというだけのことである。

例えばボーナスの評価を、AからEの五段階で行なったとする。

この場合、Aの社員とEの社員の差はどれほどにすればいいのだろうか。

極端に差をつけて、Eには月給の一か月分、Aには十か月分とすればいいのか、二ヶ月と四ヶ月くらいの差にすればいいのか、私の知っている限りでは、明確な指針はない。

Aに評価された者に聴けば差が大きい方がいいと言うだろうし、Eに評価された者は差が小さい方がいいと言うだろうから、調査しても仕方ないのかもしれない。

六韜においても、この問題について明確には語っていない。

ただ、竜韜にこのようなことが書いてある。

「一人を殺して三軍震う者はこれを殺し、一人を賞して万人よろこぶ者はこれを賞す。殺は大を貴び、賞は小を貴ぶ。刑、上に極まり、賞、下に通ずれば。これ将威に行なわれる所なり」

つまり、罰を与える場合は組織の上位者に対して行なった方が効果的であり、賞の場合は組織の下位者に与えた方が良いというのである。

そして、ルールを侵したときは例え役員や部長であっても罰せられ、良い行動を示した時はアルバイトや派遣社員であっても評価されるようになれば、社員は会社についてくるというのである。

この部分については、日本の企業はかなり良いのではないかと、私は思う。

もちろん、一部には責任を末端に押し付けようとする馬鹿な経営者もいるが、第一線の現場や末端の社員のことを考えようとする文化は、まだまだ日本にはあるのではないだろうか。

ところで、評価については、信賞必罰という言葉が人口に膾炙している。

六韜でも、文王の

「一を賞してもって百を勧め、一を罰してもって衆を懲らさんと欲す」

つまり、一賞百善、一罰百戒を行なうためにはどうすればいいのかという問いに対し、

太公望は

「およそ賞を用うる者は信を貴び、罰を用うる者は必を貴ぶ」

と述べている。

この「必罰」については、理解できる。

罰すべきことは、例外なく罰さなければならないということである。

しかし、「信賞」とはどういう意味なのであろうか。

世間では、信賞必罰と四字熟語として使用されており、ネットでその意味を調べてみると、

賞罰を厳格に行うこと。賞すべき功績のある者には必ず賞を与え、罪を犯し、罰すべき者は必ず罰するという意味(goo辞書)

とのことだが、これでは「必賞必罰」ではないのかと、疑問を抱いてしまう。

やはり、「信賞」というのであるから「必賞」とは違った意味が、そこには含まれているのではないだろうか。

「信」という字は、「人+言」から成り立っており、「言」という字は、以前の記事で述べたとおり、「はっきりという」という意味である。

つまり、人がはっきりといったことを屈せずに押し通すというのが、元々の意味である。

ここからすれば、褒美をあげるよと言ったら、あげなさいという意味にとることもできるかもしれない。

しかし、これであれば、「信賞信罰」でもいいということになる。

私は、賞に対して信、罰に対して必という字を使ったのには、言葉の響きだけの問題ではなく、もっと深い意味があるのではないかと、考えている。

紀元前522年、鄭の宰相子産は、自らの死を悟り、公孫蠆(こうそんたい)の子、游吉(ゆうきつ)に遺言した。

「私が死んだ後、あなたが宰相になる。国を統治するには厳格と寛大の二つの方法がある。しかし、寛大の統治は聖人だけができることであり、難しい方法である。あなたは厳格な統治を行なった方がいいだろう」

しかし、游吉は寛大をもって政治を行なってしまった。そのため一時、鄭には盗賊がはびこり、游吉は兵を動員して盗賊たち全員を殺すという手段をとらなければならなくなった。

マキャベリも、「君主は愛されると共に怖れられなければならない。両方できないときは、愛されることを捨てなければならない」と述べているが、「寛大と厳格」「愛と怖れ」これらはまさしく「賞と罰」である。

そして、子産の事例もマキャベリの言葉も、「寛大、愛、賞」の難しさを述べている。

何故なら、「厳格、怖れ、罰」は「罰すべきことは罰する」という必があれば何とかなる。しかし、「寛大、愛、賞」には信が大事になるからである。

ここで私は、この信とは、「褒めると約束したことは守る」といった消極的な意味ではなく、「リーダーが部下から信頼されている」という重く深い意味で考えたいと思う。

だからこそ、子産は聖人にしかできない方法であると、游吉に言ったのであろうし、太公望は文王に聖人の道を説いたということになるのであろう。

ある企業で、売上増大を狙って営業報奨制度を打ち出すということがあった。

ところが、笛吹けど踊らずで、何の効果もないどころか、かえって売上の低下という現象が起こった。

相談を受けた私は、早速、営業部隊にヒアリングを行なった。

「会社が余分に報奨しようといっているのに、何故、あなたたちはそれを目指さないのか」

彼らは、こう答えた。

「会社は私たちを金で釣ろうとしている。要は私たちを馬鹿にしているのだ。

報奨をはずむと言ったって、儲かれば上の人間たちは私たちが貰う以上にせしめていくだけだ。

私たちも生活があるから給料分は働こうと思うが、いくらニンジンをぶら下げられても、今以上に働く気はない」

まさに、「信無くば立たず」であり、信がなければ、良かれと思ってやったことでも、全く違った結果が生じてしまうということの、端的な例である。

この反対に、もし信があれば、「ありがとう」「頑張って欲しい」の一言だけでも、人は奮い立つのであろう。

信賞必罰とは、賞することで部下を動かそうとするのであれば、リーダーはまず信頼を得なければならず、罰で部下を動かそうとするならば、どんな上位者であっても例外をつくってはならないということではないかと、全く独自ではあるが解釈している。

もし、この解釈が正しいとするならば、昨今盛んにいわれている誉めて人を動かすということは、それほど簡単なことではなさそうである。 r