『中庸』相手の立場に立つ

新約聖書には、

「何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、人にもしてあげなさい」(マタイ7-12、ルカ6-31)

とある。

可能かどうかは別として、良い言葉である。

『中庸』には、孔子の言葉として、似たような趣旨が述べられている。

私としては、こちらの方が、胸を打つし、より本質的で、かつ実践的ではないかと思っている。

私たちは、親として自分の子供に対し、上司として部下に対し、年長者として後輩に対し、そして、一人の人間として友人たちに対して、様々な期待や望みをもつ。

しかし、立場を変えて考えたとき、例えば、自分が子供に「こうあって欲しいな」と思うように、自分の親に接しているだろうか?

部下に対して「こうあって欲しいな」と考えるように、自分自身が自分の上司に仕えているだろうか?

親の言うことは聞かずに、自分の子供には従順さを求めてはいないだろうか?

上司を馬鹿にしておいて、自分の部下には尊敬を求めてはいないだろうか?

子供を持てば、より良い親になりたいと、誰しもが思うだろう。

部下を持てば、より良き上司になりたいと、誰しもが思うだろう。

しかし、まず考えなければならないのは、自分自身がより良い子となることであり、より良い部下になることではないか。

もちろん、このことは理想であり、到達することは不可能であろう。

孔子ですら、出来ないと言っているくらいである。

ただ、自分の言動を振り返る際の優れた指針にはなりうる。

僕自身、改めて、反省することしきりである。

出典 (明治書院)新釈漢文大系2『大学中庸』赤塚忠著 228頁

中庸 第三段 第一小段 第二節

君子之道四。丘未能一焉。所求乎子以事父、未能也。所求乎臣以事君、未能也。所求乎弟以事兄、未能也。所求乎朋友先施之、未能也。 君子の道四。丘(きう、孔子のこと)未だ一をも能くせず。子に求むる所以て(ところもって)父に事ふるは、未だ能くせざるなり。臣に求むる所以て君に事ふるは、未だ能くせざるなり。弟に求むる所以て兄に事ふるは、未だ能くせざるなり。朋友に求る所、先ず之を施すは、未だ能くせざるなり iority51

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