興味を抱いていただけるかどうかは、分からないが・・・・。
「知己(ちき)」
豫譲(よじょう)という人が、自分の主君の敵討ちをしようとし、随分と苦労をしたが、結局、捕まって殺されてしまった。
その時、何故、そこまでやるのかという問いに対して、
「士は己を知る者のために死に、女は己を喜ぶ者のために美しく装う」
と言ったという。
この、「士は己を知る者のために」という部分を漢文にすると、「士爲知己」の4文字になり、この後ろの2文字から、「知己」、つまりは自分をより良く知ってくれる人、親友ということになった。
本来の意味からしても、単なる知り合いや友人くらいでは、知己とはよべないだろう。
思うに、誰しもが知己を得たいと考えているだろう。
しかし、自分が他人の知己とはなろうとしないことが、人生の大きな矛盾である。
「服」という字
「衣服」という使い方もすれば、「征服」という使い方もある。「服毒」という言葉もある。
何故、このように様々な使い方になるかということだが、「服」という字は身体に付着するというのが、元々の意味だからである。
身体に付ける衣だから、「衣服」であり、付き従えさせるから、「征服」であり、身体に取り込むから、「服毒」なのである。
私は愛煙家であり、「一服」する場所が段々と限られてきたことは、とても悲しいことである。
しかし、世の趨勢には「服従」するしかないのであろう。
「教」という字
「教」という字の右側の「攵」は元々、「攴(ボク、ホク)」であり、「扑」とも同じである。
「又」、「扌」は手を表しており、「卜」は棒を表している。
「攴」、「扑」は、手に棒を持っている様子の象形文字である。
教えるということは、子供に対して、棒で打つという体罰を加えるということである。
現代日本では体罰はいけないということになっている。つまり、教育をしてはいけないということになる。 そんなことで将来の日本は大丈夫なのかとも思うが、本当に教育が必要なのは、子供たちよりも、その親であるモンスターペアレントかもしれない・・・。